為せば成る|格言の考察記録

為せば成る

「為せば成る」(なせばなる)は、一般的には上杉鷹山(うえすぎ ようざん、1751~1822)の格言として知られています。

今でも、経営者などから模範とすべき言葉として敬われています。

この記事では、「為せば成る」という言葉の真意や誕生した背景などについて、考察したいと思います。

「為せば成る」の意味

「為せば成る」とは、一見すると不可能に見えることでも、諦めずに取り組めば必ず実現できるという意味です。

歌の冒頭にある一節を切り取ったものなので、言葉の意味を正しく理解するためには、歌の全文を確認する必要があります。

以下が歌の全文です。

為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
成らぬは人の 為さぬなりけり

直訳すれば、「行動すれば実現する、行動しなければ実現しない、どのようなことも。実現しないのは、その人が行動しなかったからだ」となります。

注意すべきは、冒頭の「為せば」が「為せ(已然形)+ば(接続助詞)」となっている点です。
現代語に訳すと「行うので、行うから」となり、「行動した場合は(必ず実現する)」の意を表します。

「行ってみたら(実現するかもしれない)」の意ではないので、「為せば成る」を「やってみたら、意外とどうにかなる」と捉えるのは誤りです。
(「行ってみたら」の意を表すのは「為さ(未然形)+ば」の場合)

なお、歌を文節ごとに区切ると、「人(ひと)」から始まる文節以外は、すべて「な」から始まることに気が付きます。
また、五七五七七のうち、後半の七七が「ならぬ」「なさぬ」と韻(いん)を踏んでいます。

これらのように、句頭や語頭で同じ音を繰り返す手法は頭韻(とういん)と呼ばれ、詩歌などでしばしば用いられます。
「為せば成る」の歌が耳に残りやすいのは、この頭韻が生み出すリズムのお陰もありそうです。

「為せば成る」が生まれた背景

「為せば成る」は、鷹山が次期藩主に伝えた歌です。
この歌では、君主としての心得が説かれています。

財政が窮乏していた名門上杉氏

鷹山は江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の9代藩主です。隠居する前は治憲(はるのり)と名乗っていました。
もともとは日向国高鍋藩の秋月氏の一族でしたが、母方の祖母が米沢藩4代藩主綱憲(つなのり)の娘であったため、10歳のときに8代藩主重定(しげさだ)の養子となりました。

上杉氏は藤原不比等の次男、房前(ふささき)が興した藤原北家の流れをくみ、室町時代には関東管領を務めたほどの名門です。

しかし、関ヶ原の合戦で上杉氏は西軍に味方して敗れたため、石高は会津120万石から米沢30万石に急落してしまいました。
加えて、家臣をほとんど減らさずに米沢に移ったため、藩士へ支払う俸禄(今でいうところの給与)が財政をさらに圧迫することになります。
その結果、鷹山が藩主の座に就くころには、米沢藩は莫大な借財を抱える惨状となっていました。

そこで、鷹山は産業を奨励するとともに徹底した質素倹約を奨励し、藩政改革を推し進めました。
重臣らの猛反発を退けると同時に、みずから粗衣粗食を実践して家臣たちの手本となります。

そのような努力の甲斐あって藩の財政は黒字となり、借財もすべて返済されました。
加えて、後述する「伝国の辞」や「為せば成る」で示された鷹山の意志に従い、後の藩主たちも藩政改革を受け継いでいくことになります。

なお、明治時代に入ると廃藩置県により米沢藩は無くなりましたが、鷹山らの尽力で美しく発展した米沢平野は残されました。
のちにイギリスの女性探検家であったイザベラ・バード(1831~1904)は、米沢のある置賜(おきたま)地方を「エデンの園」「アジアのアルカディア」などと賞賛しています。

君主としての心得を伝える「伝国の辞」

鷹山は、次期藩主に向けて「為せば成る」の歌とともに「伝国の辞」を伝えました。

「伝国の辞」の原文と意訳は、以下の通りです。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日  治憲 花押
治広殿  机前

一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。
この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。

引用:Wikipedia|上杉治憲

この「伝国の辞」で言わんとすることは、「藩主として藩と領民に尽くせ」です。

その点を踏まえると、「為せば成る」はリーダーとして必要な心構えを伝える言葉ということになります。

もし、「為せば成る」という言葉をリーダーが部下に対して使った場合、さながら根性論のような、まったく異なる意味となってしまいます。
それは、みずから襟を正して藩政改革に邁進した鷹山にとって、不本意な使われ方といえるでしょう。

「為せば成る」の基になった可能性のある言葉

実は、上杉鷹山の「為せば成る」には、元となったと考えられるものが2つ存在します。

1.『書経』

『書経』とは、古代中国の歴史書です。儒教の定める五経(ごきょう)の一つに数えられます。
伝説上の聖人君主、堯(ぎょう)・舜(しゅん)から夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)王朝の政治に関する心構えなどがまとめられた書物です。

その『書経』太甲下篇のなかに、伊尹(いいん)が殷王・太甲(たいこう)を諫めた際の言葉が記されています。

弗盧胡獲、弗為胡成
(書き下し文)
慮(おもんぱか)らずんば胡(なん)ぞ獲(え)ん、為さずんば胡(なん)ぞ成らん

意味は「熟慮しなければ、どうして何かを得ることができようか。行動しなければ、どうして何かを実現できようか」です。
(厳密には「胡(なん)ぞ」は「~できようか、いやできるはずがない」と反語を表します)

江戸幕府は、封建制度を強固にするために儒教の学問である朱子学を用いました。
当然、鷹山も『書経』を熟知していたはずですので、伊尹の言葉を踏まえて「為せば成る」を歌ったとしても不自然ではありません。

2.武田信玄の歌

戦国大名、武田信玄(1521~1573)が遺したと伝えられる歌に、以下のものがあります。

為せば成る 為さねば成らぬ 成る業(わざ)を
成らぬと捨つる 人の儚(はかな)き

歌の半分は、鷹山の「為せば成る」とほとんど変わりません。

試しに、文章の類似度を計測するプログラム(PHP言語のsimilar_text関数)を使って信玄の歌と鷹山の歌を比較したところ、類似度が約75%と出ました。
簡易なプログラムを使って計測した結果ではあるものの、類似度は極めて高いといえます。

鷹山が信玄の歌を参考にしたという決定的な証拠は存在しませんが、数字のみで判断するとしたら、信玄の歌を基にしたことは間違いないでしょう。

ただし、信玄の歌の場合は「行動すれば実現する、行動しなければ実現しない。実現できることを、実現できないと投げ出すのが、人の弱さだ」という意味です。

人の性質を鋭く見抜くのが信玄の歌が持つ特徴であり、鷹山の歌のような心得とは異なります。
もしかすると、鷹山はその点を踏まえつつ、新しい「為せば成る」の歌を作ったのかもしれません。

なお、上杉氏と武田氏の関係を補足すると、戦国時代は両者は長らく敵対関係にありましたが、謙信亡き後に勃発した跡目争いがきっかけで、天正7年(1579年)に同盟を結んでいます。

その際に上杉景勝(かげかつ、後の米沢藩初代藩主)は武田氏から妻を迎い入れていたため、信玄の子・武田信清は武田氏滅亡後にその縁を頼って米沢に身を寄せました。

そのような経緯を踏まえると、鷹山が信玄の歌を参考にしたとしても、何ら不思議はありません。

まとめ

この記事では、上杉鷹山の「為せば成る」について詳しく見てまいりました。

鷹山の生涯は、後世のリーダーらに大きな影響を与えました。
一説によれば、アメリカ大統領が尊敬すべき日本人として鷹山の名を挙げたとも伝えられています。

「為せば成る」の言葉は、時代を超えてもリーダーの心構えとして受け継がれています。

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